昭和56年3月1日 朝の御理解 御理解 第79節 「商売をするなら、買場売場を云うて元を仕込む所と売先とを大事にせよ、人が口銭を拾銭かけるものなら八銭かけよ、目先は弐銭損のやうでも安うすれば数が売れるから、矢張り其の方が得ぢや身体はちびるものでないから働くがよい。」
商売人に対する、教祖の神様のこれはたった一つの御教ですね。もう確かにこのような状態に店がなったら、間違いなしに発展繁昌間違いなしですね。所がなかなかむずかしい。特に商売人は、そろばんばかり持ちますから、いくらで仕入れていくら儲からなければ、立ちゆかんという事がいつも頭にあります。まあいろいろ宣伝とか広告とか致します事は、なかなか抜け目がないですけれども、その宣伝とても広告とても、果してどれだけの真が其の中に在や否やという事を検討すると、ただ売らんかなの為の宣伝であったり広告であったり、まあサービスであったりするわけであります。ほりあ商売人は儲かるという事がまあ商人の道としては、そうなんですけれども、それこそ信心による商売というのは、教祖がここに教えておられるように、売場買場を大切にするとそして自分、体はちびるものでないから、一生懸命に働くという事。
まあそれを合楽で申しますと、商売は合楽理念をもってする他はない。だから商売は合楽理念をもってする他はないという事は、どういう事かと云うと、ここに神様が教えておられます。売場買場を大切にするだけでなくて、十銭の物ならば八銭というように、いかにも目先はそれだけ少く儲かる、損のようであるけれどもとこうおっしゃっておられる。それがね商売は合楽理念をもってする他なしという所に、徹底してまいりますと、そこの難しい事が容易にしかも楽しゅう出けていくという所まで合楽理念を、マスターしなければいけない、実験しなければいけないのです。兎に角楽しゅうなるおくり合わせ、いよいよ有難うならせて頂く、おくり合わせを頂かねばならんのです。不思議に楽しかったり、有難かったりという時には、出来ない事も出来るのです。合楽理念はいうならば、これは商売だけの事ではありませんけれども、商売は合楽理念をもってする他なしといえれる商売人にならなきゃなりません。OOは合楽理念をもってする他なしと云ひきれれる信心を頂かなければなりません。
そこで自分の心もおかげも自分の心一つで左右するのですから、結局心に焦点をおかなければならない。私は今日この御理解という事よりも、この七十九節という御理解、第七十九節という七十九という所に、神様は目を付けて下さったんです。けれども七というのはいつも頂くように、ちょっと改まれば+(プラス)になるのですね。七の字をちょって真直ぐ(十)すれば、商売人だからこれ位のかけひきは当り前、もうそれこそ平気で商売でのうそなら、つけれる商売人。それが商売上手のように実際私共思うてきたのですけれども、それではいかにも目先が儲かったようであり、いかにも売れるようであったけれども、やっぱり駄目だった。結局はいうならば、商売上手というだけではいけなかった。
信心させて頂いたらもうそれが難しいんですね。人が十銭で売るものは、ならば八銭でとおっしゃるれりども、私の場合人が十銭で売る物は、十一銭で売りきるのが、商売人の腕がいいのだというふうに思うていたのです、本当です。だからおかげ頂くはずがなかった。人が十銭しか売り上げきれないものは、十一銭も十二銭も売り上げきる事が、いうなら、よか商売人のように思うておった。いうならば、このそういう間違い、七を十にする。ちょっと改まればよいものを、改まる事が出来ずに、ただ商売人根性だけでやってきた商売。いうなら七という字をちょっと改めると、一つ心の上に改まると、どういう事になりませうかね、九節の九は十になります。いうならば七十九節が八十になるのでするもう八十といういう事は、いよいよ広がりに広がっていく為には八十である。いよいよ自分というものを、空しゅうしていくという事があります。これはやっぱり自分を、空しゅうするという事は、自分を殺すという事なんです。いうならばもう目先の利欲には、そう殺すという事なんです。迷わないという事です。
ですから八十に又空しゅうする、0(まる)がいっちょ0(ゼロ)が付くわり。又付けると八00になる、八.000になる。そういう、いうならば普通では考えられない繁昌が頂けれれるような信心が、合楽理念によって商売は合楽、ただお願いさえすればよいというのが合楽理念ぢゃないのです。なかなか十銭のもので八銭で売れという事は出来ませんけれども、結局自分をり自分を空しゅうしていく、もう儲かりは別だと神様のお商売をお手伝いをさせて頂いて、おるんだという所になってくる時に、自分の我情我欲というものが取れてゆく。しかもそれが合楽理念に基づくと楽しゅう出けてくる。七十九節を八十にも出ける。又それを八百にも八千にもしていけれるという手立て、それが合楽理念であると思うです。不思議なんです。自分の心が生き生きと喜びで一ばいになってくる時には、体を使う事も有難いなら、人が喜んでさえもらえばという心が強うなってきます。今これをささやかな商売をして居られます方ですけども、実験実証しておられる方があります。もうそこには行く所、至る所に神様の生き生きとした働きを感じさせて頂いて有難い。
昨日、一昨日でしたか、敬親会、敬親会は二十九日ですけれども、二十九日がないから二十七日にありました。
毎朝、朝の御祈念に参ってみえます。もう寒修行からいよいよ信心が有難くなってきたというわけです。教えが身についてきた事です。もう日々をもう教えに基づいての御用でなければもう、馬鹿らしゅうなってきたんです。朝の御祈念に参って又有難いの一念で、午後から又、私が丁度敬親会の研修が終ってここを下がる時に参ってみえた。それでもうお取次頂かなかったけれども、自分所の近所から、おばあさんが一人敬親会に参ってみえていた。丁度そのおばあさんを、そりぉもうここから帰られると云うと、そのバスを使うて久留米に出て、そしてあの甘木行きの電車に乗り換えなければ、そして歩いていかなければという所から、参って来るおばぁさんです。そのおばあさんを丁度、敬親会が終った時にお参りしてみえましたから、丁度おかげを頂いたというてあのおばぁさんのせておくってあげた。まあこういう事が日々なんです。
ですから体はちびるもんではないというて、一生懸命頑張って、いうならば人の為に自分が使われているという事が、有難うしてこたえんという行き方なんです。商売をしながらかたそばに百姓をも少し、しておられる先達で、御主人と二人でたく山なじゃが芋植ゑをした所の、最後の一切というか一つまできちっと余りもしなければ、足りんという事もない、ああすばらしいタイミング、お父さんこれが合楽の信心でんよというたら、ほうというちから、信心のない主人もたまがつたという。もうすべての点にすばらしいタイミングが生まれてくる。商売の上にも、もう置いたものを取るようにこりぁ生き損でやった、これは反対だったと所にちゃんと、おかげがおいてあるという感じなんです。だから十銭のものを二銭損して売るといったような、損してというかまあ安くして売るといったような事は、もう全然問題じあない。もうそうせずには馬鹿らしかというような体験をもう毎日、私が毎日朝参って今日も参っておられます。
私は毎日あんたのお届けば聞くのが楽しみという位に、神様を表わしておられる方なんです。そういう表わし方があるという事をです、体験さしてもらうという事です。いつも自分を0にする。いつも自分を空しゅうする事を、が楽しゅうなさってきた。七が八になった、八に0が一つついたら八十になった。又0になった八百になった。というようなおかげになってくるんです。いうならばもうおかげを、おかげと実感せずにはおられない。もう本当に二度目にお礼参拝した時には神様が、こういうおばあさんを送ってあげられる、こういう御用があったんだとその事がありがたい。普通からいうたらあんまり十になる所か損になる事です、いうたら、けども損になる事が有難う出けれるという事。信心はいわゆるこの御理解は、いや合楽理念は、それが本当の奉仕であり、私はサービスだと思ふのです。これは商売だけの事ではありませんよ。一事が万事、いうなら七の字を改めた事一つが加わったら、七十九が八十となった。有難い八十に又一つ0がついたら八百になった。というような日々おかげ頂いていけれる事に、専念さしてもらわなければならない。
昨日総代さんの永瀬さん所の好例の謝恩祭が、盛大に奉仕、私がさしてもらいました。その後に、御理解にお話しさして頂いた事です。けれども、兎に角おかげをおかげと分らんから、神のおかげを知らんから互い違いになる。神のおかげを知らぬから互い違いになる。神のおかげを知れば、一年勝り代勝りのおかげが頂けると教えておられる、そのおかげを実感しきれない。おかげと思っていても心から湧いてくる有難いというものが頂けない。お話しを聞けばもう一切がおかげである。天地の大恩、徳の中にあるんだと分っちゃおるけれども、その大恩徳に対して恩に対する、神恩報謝の心もおこらないし有難いという、それをおかげともキャッチ出来ない。どういう事だろうかと、なかなかそれを思うておる人はあるけれども、それを究明していく人がない。それがもう当り前、知っちぁおるけれども体が動かんという事。喜びがないからである。神のおかげが本当に分かったら、いうなら体も軽々とと動くのである。目先は損のようであっても、損の事が有難いのである。
そして決していつの場合でも損ではない、おかげが待っておるというような体験を日々頂いていく。おかげをおかげと分からして頂く為にはどういう生き方になったらよいだろうかと。
昨日私はちょっと、いつもの事ながら驚きでしたけれども、昨日の午後の奉仕、ここに座わらして頂いたら、浮羽郡のの石井さんという方が、一週間に一ぺんづつ位自分の家にたく山花を作っておられる。そのお花をなさいますから、まあ各部屋部屋にお花の御用をなさる方なのです。その方がここでお取次頂かれるんです。先生昨日から今日にかけて今朝にかけて、こういうようなお夢を頂いたと云われるんです。やっぱりお教会に御用に来て茶の間に茶道具、花の道具が全部置いてございますから、そちらへまいりまして、花瓶を全部出して持って来て、花を活けようと思うた所が、剣山がない。あいた剣山が無いなら、こりあ花は活けられんがと思っておる所で目が覚めたというのである。私はそれを聞いた時に、あら、今私はその事を久富さんが丁度昨日は、一日御用を頂いておられましたから、私のお手洗の花だけは必ず久富さんがして下さいます。なかなかいい花がいつも入れてあります。
所が釣ってあるんですね、まあ備前焼のすばらしい小さい壷がこう掛けてある。それに入れるのですからなかなか入れにくいんです。それで繁雄さんこりあ中に剣山ば一つ求めて剣山を小さい剣山を中に入れといたら、花がとまってようわらかの云うてここへ座ったら、その剣山のお届けであった。ははあさっき私が久富さんに云うたのは、私が云うたじぁなかったなぁと、神様が云ひなさったっだなあといったようなものをいつも私は感じるんです。それで私が今久富さんに話してきた事を御理解に解くんです。剣山が無いと花がとまらない。剣山というのは、いうならば剣の山というふうに頂いていいでしょうね。いうならばいうなら修行というてもいいでしょうね。そのきびしいとまで思われる位に修行が出けておらねば花がとまらんです。勿論心に喜びの花というから、自分の心ん中に喜びの花がとまらないおかげとは、分っておっても実感として湧いてこない。
不思議に一生懸命の修行をさせて頂いとる時にあ、今まで気がつかなかった所にまでも。あれもおかげこれもおかげ、はあ反対にこれは困った事のように思っておったけれども、この事は本当に神愛であったと分ってくる。なら剣山、剣の山といや、大変険しい、いうならば修行のようにあるけれども、合楽では火の行・水の行といったような表行的な事は全廃ですから、結局家業の行であり心行なのです。その心行が目のつまった心行こそが剣山の修行です。 厳しい修行というのは、日々をしっかり自分の心を見極めて、いうなら心の修行をさせて頂くという事が、心に剣山があるからどういう花でもそこに、自分の思うとおりに活け上げていく事が、とめていく事が出れるのです。
心に、不思議です心に喜びのある時には、損も損とは感じない。体を使う事もむしろ有難い。いやそうしなければおられなくなってくる。はじめていうなら合楽理念に基づく商売はもうここだ。合楽理念に基づくいうなら何々、商売だけの事じあ、ありませんけれどもどのように自分の心の中に、いうならその剣山がある。修行がある時には喜びがある時には、きつい事がきつくない。馬鹿らしいなあと、そりあみすみす損するたいといったような事が有難うなってくる。だからそこには、いうなら損して得取れといったような徳がついてくるわけです。合楽理念に基づく商売、それは七十九節、七十九節、七を一つちょっと真直にする。十になる、一つそれにそえたら、九が十になる。いうなら七十九節が、八十になる。
そして自分を空しゅうするという事は、今お話の中に聞いて頂いたような、目先が損のようであっても、それが有難く出来ると云いう、自分を空しゅうするという事こそが、0にする八が八十になり八十がまた一つ0をくわえると八百になるようなおかげが頂けていける、いうならばしんじんを、七十九節は説いてあると思います。だからそれがそう教えられたから、それを実行するという事は非常に難しいです。ちらちらと我情が我欲が出てくるけん、こげなこつ馬鹿らしい商売しよったっちぁとても、どんこん出けんという事になってくる、どんこん出けんと思うその事がです有難うなってくる。今その方、今申しましたその方、ささやかな商売をしておられる方なんですけれども、もう寒修行から今日までずうっと大分まわり道なる所の方を、自動車に乗せて、初めの間はそりあ本当、大事な時間にあっつあにずうっと廻ってから、馬鹿らしいごたる気もしよったが、それでもまあ乗せていって下さいといって、待ってあるから乗せて来たけれども、それがだんだんそこに回っていく事が有難うなってきたんです。
いうならば人に親切を施す事が、有難うなってきた。そこにはもうガソリン代とか、労力とかといったようなこつは、もう全然なくなってしまった。ただ有難い方がいうならば、いつも自分の心を左右している。そこにおかげの頂ける合楽理念のシンというものがある事になるのです。皆さん七十九節が八十節する為には、いうならば剣山である。喜びをこりぁもう理屈からいうとお礼ば申し上げんならん事ぢぁけどもなぁ、こう思うけれども、お礼の心も体も動かん、喜びも湧いてこない。分かっているんだけれども、そこに修行不足、悟らしてもろうて本気での修行に取り組む、本気での家業の行に取り組む、本気での心行に取り組む、そこから湧いてくるか分からんその喜びが、目先は二銭損のようであっても損ではないおかげ。体は成る程ちびるものではないなぁ、むしろいうならば、そうして奉仕の生き方こそが、むしろ有難うなってくるというような、生き方になってはじめて合楽理念に基づく生き方が、こんなにも楽しゆうして、有難うして、しかも愉快にまでなってくるという事が分かってきます。
ただ商売しとる人に、兎に角安う売りなさいとね、兎に角あの売り場・買い場を大切にといわれる。お客さんは大切にするけれども、いや仕入の方は、たたいてたたいてたたきまわして、買おうといったような、根定がなくなってくる。売場買場を大切にするといったような事は、こりぁ私が商売してきて難かしかったです。向こうが十銭というものは九銭で仕入りゅうごたる。売るとは十銭のものは十一銭で売ろうごたる。そういう心が強うなって、それがそのまあうそにでもそれが出けるような、それが商売上手なように思うておった。成る程これでは、一時目先はそれこそ損のようじぁなくて、それこそ目先はいかにも儲かったようであっても、結局は儲かっていなかったという事になるのです。どぅぞ七十九節を八十にする自分を空しゅうする修行に本気で取り組まなきぁならんという事ですよね。 どうぞ